(青年海外協力隊滞在記--ブータン王国の医療) 山口大学医学部附属病院 病理部 皆さんはブータンという国をご存じだろうか。Kingdom of Bhutan:ブータン王国というのが正式な名前で,国連にも加入する国である。現地の言葉であるゾンカ語ではDruk Yul(雷龍の国という意味)という。お茶で有名なインド・アッサム地方の北,ヒマラヤ山脈を挟んで中国・チベットの南に位置する九州と同じ程の大きさの国である。緯度的には,奄美大島とほぼ同じ緯度に位置し,平野部は亜熱帯気候に属する。しかし,国土の多くはヒマラヤ山脈の稜線に点在し,主要都市(街)は標高2000mから3500mに位置する。そのため,多くの都市は温帯気候に属する。それより標高の高いところでは,高山気候に属し,万年雪や氷河を戴くヒマラヤの峰々が連なる。
私は,1991年7月から2年間このブータン王国で青年海外協力隊として活動してきた。主な任務は,首都ティンプーにある国内最大の病院,ティンプー総合病院(ベット数:250床)でブータン人技師に病理検査技術及び細胞診技術を移転することであった。私はそれまで細胞診資格は取得していたものの,実際にパパニコロウ染色を染めたことは1度もなく,ましてや病理検査には1度も携わったことがなかった。赴任前に,自分には十分な技術のないことを前任の協力隊員に伝えたが,移転する技術は技師学校レベルで十分だといわれ,不安を持ったまま着任した。 隊員宿泊所から用意されていたアパートへの引っ越しには,病院の救急車がやってきた。職場には,日本人技師(協力隊)が1人いたが,その他はブータン人,インド人その他各国のボランティアたちで,英語でのコミュニケーションをする日々が始まった。病理細胞診部門は,ブータン人カウンターパート(技術移転対象者)と2人体制であったが,仕事は,病理細胞診だけでなく梅毒検査と妊婦の血液型検査もなぜか病理の仕事であった。 赴任して3日後,カウンターパートは,1週間の休みを取って故郷(後で聞いたらバスと徒歩で5日ほどかかる場所らしい)へ帰ってくると言って居なくなってしまった。帰ってきたのは1月後であった。1週間の休みを取ったら1か月は帰ってこないのは当たり前というブータン人の感覚に,始めは憤りを感じたが,2年も過ぎるうちに自分もその感覚に馴らされてしまった。とにかくこうして,2年間の悪戦苦闘の日々は始まった。 毎朝7時に起きて,パンとコーヒーの朝食をとり,8時半には歩いて職場である病院へ出かける。9時から仕事開始で,午前中は梅毒検査と妊婦検診に追われる。12時を過ぎると病院の前にある食堂に昼食を食べに行く。午後は,組織の切り出しやHE染色,Pap染色を行い1時間ほどスクリーニングをする。細胞診報告書には,インド人病理医のサインをもらうが,彼はほとんど細胞診はわからないと言うことで,ほとんど結果を1人で返している状態だった。週に1度,病院に併設する保健学校の検査技師コースの学生に組織学と病理検査法の講義を1時間ほど行っていた。午後3時には仕事が終わり,家路につく。
保健学校は,医師と薬剤師以外の医療技術者の養成を行っていた。このうち,検査技師と放射線技師,助看護婦はClass13卒で入学し,2年間の教育課程で,他の職種はClass16卒で2年間(Basic
health
workerは3年間)の教育課程であった。この保健学校は,国内唯一であり,設立されてまだ4〜5年がたったばかりであった。それまでの医療職の養成は,インドの保健学校に行くのが一般的で,看護婦さんを始め多くの医療職が不足していたようだ。医師の数が138人と他の医療職に比べて多いように思えるが多くの医師免許取得者(インドの医科大学卒業者が多い)が,政府高官として働き,臨床に携わる医師はむしろ少ない。不足分は,国連や他の国のボランティアで補われている。
私が2年間細胞診を教えてきたブータン人技師は,昨年の始め反政府運動の関係で職を追われてしまった。そのためか,今年の協力隊春募集でブータンから細胞診検査士の募集がでていた。ブータンだけでなく多くの発展途上国で細胞診検査を含む検査技術は高く評価されている。そのため,毎年10名以上の検査技師が協力隊員として途上国の病院で活動するため赴任している。協力隊だけでなく,日系社会ボランティア,シニアボランティア,JICA専門家,NGOボランティアなど多くの海外ボランティア団体で検査技師としての技術が求められています。興味のある人は,是非チャレンジしてみてはいかがでしょうか。 その他の写真集 |
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